料理屋として鹿児島に根ざし、時代と共に歩み続けて90余年


昭和8年の創業から現在に至るまで、料理屋として商いを続けてこれましたのも、ひとえに今までご縁あった方すべての皆様のおかげであると深く深感謝致しております。 今年当店は創業九十一年目に入りました。

創業者である新村勝納は、いわば包丁一本で料理人としての道を切り開き、天皇陛下御巡幸の際には二度、料理番を務めるまで登りつめました。

名前の由来は
「料理がえぇ きっぷがえぇ サ-ビスがえぇ」
初代が考えていた 料理屋を繁盛させるための三つのえぇ(良い=A)であり サンヱ-となりました。
二代目が約四十年前に現在の場所に移転する際、城山を背にした立地にご縁を頂けたとのことで 、山に映える「山映」となりました。

初代は船を二艘有し、自ら獲った魚を振る舞っておりました。その当時より、当店では天然鯛を扱い続け、今現在でも塩と酒のみで調理する鯛の潮汁は当店の自慢の品であり 鯛を知り尽くす当店ならではの仕事を施した鯛の刺身などはお客様にご満足頂ける料理となっております。

「地方には強烈なまでの個性を残さなくては皆の楽しみはなくなってしまう。だからこそ郷土の味を残していかなくてはならない」という初代の言葉を改めて芯に置き、 より一層郷土の食文化を、山映の味を、大切に色濃く残していきたいと存じます。
本質を守りながら時代の変化とともに、薩摩の極上を継承してまいります。

三代目女将

三代目

創業者

二代目と大女将

山映のあゆみ


昭和8年(1933年)

大阪「はりはん本店」や「つる家」での修業から帰省。
7月に天文館にサンヱーを開店。店名「サンヱー」とは、「料理」「酒」「サービス」の三つとも「ヱー(良い)」ということでつけた名前。
大阪時代の経験から美人がいないと店は繁盛しないと、素人の美人ばかりを雇う。
船を買い、毎朝自ら錦江湾へ出て魚を釣る。3時間で470匹の鯛を釣ったのが最高記録である。新鮮な刺身と三つの「ヱー」そして美人の仲居が評判となり繁盛店となる。

昭和20年(1945年)9月

空襲により跡形もなく消えてしまった戦後のスタートは、西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)前にバラックでつくったサンヱー。イワシとカライモのメニューからの再開だった。終戦直後の治安の悪い中、業者などの避難場所となり、店は大繁盛。

昭和22年(1947年)6月

呉服町に鹿児島初の宴会場をつくり、政財界の社交場となる。

昭和24年(1949年)6月

天皇陛下ご巡幸の際の料理番となる。

昭和31年(1956年)8月

当時観光地として大賑わいであった吹上町のさつま湖畔でサンヱーを開店。

昭和33年(1958年)4月

天皇皇后両陛下ご巡幸の際、再び料理番となる。

昭和39年(1964年)

先代新村勝納が九州調理士栄典局名誉総裁厚生大臣小林毅より名誉包位を受く。

昭和42年(1967年)4月

照国町にサンヱーを移転。

昭和48年(1973年)

初代の次男新村健治が二代目を継ぐ。

昭和58年(1983年)11月

現在の城山町へ移転。店名を「サンヱー」から「山映」とし、現在に至る。

平成25年(2013年)7月

創業80周年を迎える。

令和元年(2019年)10月

店舗リニューアルオープン、三代目若女将就任。

昭和天皇の料理番
昭和24年(1949年)6月/昭和33年(1958年)4月


ゲート入り口
昭和23年頃(正月)@天文館入口


バスガイドさんの吹奏楽団
撮影時期不明@山形屋前


港風景
昭和27年頃@当時の離島航路発着所


山形屋前の群衆
撮影時期不明@山形屋前


焼きイモ売り
昭和25年頃@小川町、滑川


照国神社前の大通り
昭和28年頃@照国神社前の大通り


水上住宅
昭和24年@現在のみなと大通り付近


戦後の闇市
昭和25年頃@小川町、滑川


戦後の天文館通り
昭和28年頃@戦後の天文館通り


戦後初の花電車登場
昭和25年頃@天文館電停


村のポンポン船
昭和28年頃@桜島桟橋


村の船着き場
昭和28年頃@現在の桜島フェリーの発着所付近


中央公園の憩いの場
昭和30年頃@鹿児島中央公園


天文館を行く駐留米軍
昭和20年@天文館付近


納屋通りの賑わい
昭和35年頃@納屋通りの賑わい


復興の街、走る電車
昭和22年頃@いづろ近辺


米軍政部兵舎
昭和22年頃@現在の市役所付近


木造3階建フェリーと桜島
昭和27年頃@桜島桟橋


露天商の風景
昭和25年頃@小川町、滑川